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三重豪NZ協会メールマガジン                          

  季刊 サザンクロス三重

         
Southern Cross MIE

                 
                 2017年第2号(通号2号) 2017年6月17日発行


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もくじ

南十字星の下で            金兼 文典

英語落語への挑戦        可愛家 ぱいる 

サザンクロスに日本国内で会う旅  立石 雅彦



南十字星の下で        金兼 文典

戦後、昭和の三十年代の頃、日本人が海外移住ブームで大勢がブラジルをはじめとする南米へ渡りました。勿論各々その託する夢があり、農業移民を中心とした生活基盤を構築していく日日の活動が大半の移住者の役務でした。時が過ぎると移住者の生活状況は様々な形になって家族、健康、仕事や経済面などに違いが見られ、よく移民物語では成功談やその反対のことが語られてきました。

高校を卒業した年に両親、兄妹の五人の家族で移住し、ブラジル南部のパラナ州で日系農場主のコーヒー園に就労。一帯は未開の森林が続いており、新しくコーヒー園を伐り開く山焼き、区割り線引き、穴掘り種まき、材木切り出しなどを目にし、除草作業、収穫乾燥出荷作業を経験し、コーヒー豆の品質等級味仕分けと値段交渉なども見せてもらった。でも人手や資本など適性や経営規模から家族内で相談し、果樹養鶏の方を選びサンパウロ郊外に移りました。

福井県が移住奨励促進の活動をしている中で、移住地造成の計画を公表し家族は応募し入植が決まりました。ぶどう、柿、びわなどの果樹栽培を中心とした農村になっている。その頃ブラジルは、ミナス州出身のクビチェック大統領が五十年を五年でと工業化政策を推進していた。ブラジリア遷都も実行しておりました。その計画は石油に始まり、自動車や造船産業であり資本材の鉄鋼業でもあり、豊富な地下資源があってそれがウジミナスでした。(注 ミナスゼライス製鉄株式会社)

日本ブラジル両政府の合意了承なって、製鉄所建設プロジェットが大西洋側から約600km内陸部の南緯19度位に位置するイパチンガにて始まった。1962年10月26日第一溶鉱炉に火が入り、鉄鉱石から銑鉄への生産活動が始まった。工程は続いていて、このために日本から大勢の技術者が派遣支援されて、次々と拡張もなされてタンクや造船材の厚板鋼板や家電や自動車用薄板鍍金鋼板の高級商品などを製造する鉄鋼メーカーになっています。

この建設から操業において在ブラジルの日系一世、二世、三世がいろいろな分野で技術移転の役目を果たしてきました。私も初め製銑部門に配属され溶鉱炉の生産作業の手伝いをしました。専門はなにもなく広報室の応援をしたり、品質管理部門にて品質改善や新商品の開発グループのスタッフになったり、研究者への協力などで鉄鋼製造プロセスが大変興味深くもあってモノ造りの誇らしさも感じました。ブラジルの労働法に従い定年退職し、その後も嘱託として製鉄所に合わせて50年半勤続しました。

イパチンガにて家庭を持ち三人の娘達はサンパウロ大学へ進み老夫婦も移り住み旧知の二宮正人サンパウロ法科大学教授から元新日鉄の副社長阿南惟正さんの著書「鉄の絆」をポルトガル語に訳してと依頼され一瞬躊躇いたしました。ご自分が在職していた時期の生活環境の出来事で、一派遣者の追想を綴ったものでした。約十ヵ月ばかりかかって娘達の協力によって下訳したものを二宮先生に手渡した。後日古くから知り合いのブラジル人から何人も電話や手紙が届きとてもよかったと喜んでくれました。

ミナスの夜空で見えた星もサンパウロ市街は大気汚染で見え辛く時折雨上がりの澄んだ空になると南十字星がみえます。住んでいる処から近くで日本人移民が建てたサンタクルース病院の75年史を今和訳し終えました。日本人移民の歴史は百十年目を迎え、一世から五、六世にと世代が続いて多様な日系社会が展開しているブラジルです。


筆者紹介:かねがね ふみのり:1940年満州ハルビン生まれ、県立敦賀高卒、1959年家族とブラジル移住、コーヒー園や果樹養鶏場にて就労、1962年ミナスゼライス州イパチンガ市のウジミナス製鉄所勤務、定年後嘱託にて2012年まで勤続、その後サンパウロ市に移転。




英語落語への挑戦      可愛家 ぱいる

あちこちで素人落語を演じています。たいていは在住の四日市市内ですが、時には海外で英語落語をすることもあります。そこでよくきかれるのが、海外の人が落語で笑うのか、ということです。

そんなお話をしてみましょう。

たしかに落語は笑芸ですが、ストーリーは楽しい場面だけではありません。悲嘆にくれたり、激怒したり、折々の人生模様を、演者はけっして面白おかしく描くわけではありません。とことんリアルに、真実を表現しようと試みます。それが上手くいって、お客さんの共感を得られたときに笑いが起こるのです。

ダジャレのような滑稽だけでなく、金銭のもめごとや、嫉妬、お酒の失敗、道楽息子の始末、病気や死…人生の悲哀すら、それを想像して、客観的に眺めた時に、人はそれを笑いに変えるバイタリティを持っているようです。明日を生きる活力ともいえるでしょう。

そうして、これは国境や環境、文化を越えて、すべての人にいえることです。

笑いと想像力、これはすべからく人間だけが持つ能力です。賢いチンパンジーは計算はできますが、想像したり、笑ったりすることはできません。こう考えれば、笑いは小さな枠を超えて、人類共通のものであるといえるでしょう。

だから、言語を変えて、内容を伝えれば、海外の人も大いに落語を楽しんでくださいます。そればかりか、人種、国境を越えて、客席と高座が共感で結ばれた時というのは、ほんとうに感動します。そこで笑いが起こったということは、「あなたが悲しいと思うことを、私も悲しいと思う」「あなたがうれしいと思うことに、私も喜びを感じる」というメッセージなのです。

とはいえ、日本古来の伝統芸能である落語を英語に変えることは易しいことではありません。

わかりやすく噺を整理するという作業もありますが、いちばん難しいのはリズムと抑揚です。人は言葉の意味を理解して感動するだけでなく、リズムや抑揚で心を揺さぶられるものです。オペラやミュージカルの魅力もそこにあるでしょう。歌とちがって落語にはメロディは無いのですが、上手い噺家は発音の高低や緩急の間を自在に操ります。そこをずいぶん意識して、セリフを作っていきます。英語特有のイントネーションが新しい笑いの発見につながることもあります。そうしておもしろいことに、人を笑わせたり、驚かせたりするリズムと抑揚もまた、万国共通なのです。

一見、全く違う社会とそこに生きる人たちとの間に共有できるものを見い出す…そこに交流の喜びがあると思っています。


最後に、私が「皿屋敷」を演じた時の、日本の幽霊について説明しているところを。

From now, I’ll tell you the story of Japanese ghost.

Someone who had met an unnatural tragic death, come back from the death
world as a ghost.

Japanese ghosts must be human beings. Animals become monsters.

And Japanese ghosts must be young, must be very beautiful ladies. Othersbecome monsters.

Japanese ghosts take this style. Their palms turn to downward. It means darkdeath world. And they don’t have legs. Their kimonos are white and thin.Their long black hair is wet and disheveled.

In Japan, we have a lot of ghost stories having been handed down in many oldtowns and villages.


YouTubeなどで噺家の海外公演の様子がいろいろ上がっています。興味を持たれた方はぜひ視聴してみてください。


筆者紹介 かわいやぱいる:神戸大学落語研究会OG。依頼に応じて各種コミュニティで上方落語を演じる。仲間3人で「一姫二太郎落語会」を主宰。数年前から英語落語も手がけ、海外公演もするようになる。




サザンクロスに日本国内で会う旅     立石 雅彦

サザンクロス(南十字星)は天の南極を探す手がかりになる星座で、南の海を航海する船乗りが自らの位置を知るのに役立ってきた。南半球を象徴し、国旗に南十字星をあしらう国もある。オーストラリアとニュージーランドもそうであり、本協会のメールマガジンのタイトルもそれにちなんでいる。

北半球でサザンクロスを望むことのできる場所は少ないが、北緯24度以南では季節によってこの星座全体を見ることができる。日本最南の有人島波照間島が観望の地としてよく知られている。本協会ではメールマガジン創刊を記念しサザンクロスに日本で会う旅をすることになった。観光客の多い石垣島や西表島でも可能なので、有名旅行社の企画するツアーに参加した。観測しやすい時間に南十字星が夜空に出現する時期は4月から6月である。ところが5月中旬から八重山地方は梅雨に入る。今年は例年より遅めだったがすでに梅雨入りしていた。幸運を祈りつつの出発だった。

5月20日に中部空港を出発、石垣空港に到着すると雨だった。この日は星空を見上げるのは不可能だった。翌朝ホテルの人に尋ねると、この施設からはサザンクロスは見られないが、この近くにも見られる場所があると聞いているとの答えだった。

21日は雲が多く、時折にわか雨が降る不安定な天候だった。石垣島市内見学を終え、西表島に近い小浜島のリゾート施設に3時過ぎに到着した時は雨だった。この夜は諦め、早くベッドに入った。わたしはすぐに寝られず、午後11時頃部屋の外に出てみた。すると、たくさんの星が輝いていた、残念ながらこの部屋は東向きでサザンクロスを観望することはできなかった。

22日は朝から快晴で、コバルトブルーの海や西表島のマングローブ林、竹富島の赤瓦の住宅と咲き乱れる花など、美しい景色を堪能することができた。サザンクロスとの邂逅が大いに期待された。夕食後リゾート施設内の南向きのビーチに滞在中借り出していたカートに乗って出かけた。見上げるとたくさんの星々があったが、サザンクロスのあると思われる地平線近くに雲がかかっていて、目的を達することはできなかった。

翌朝再びビーチに行ってみると、昨夜この浜に星を見に来たという夫妻と出会った。「あの島の上に南十字星が出ると聞いていますが、昨夜は雲があって残念でした」というお話し、サザンクロスに心を寄せる人たちとの出会いもよい思い出となった。なお、われわれが2泊したリゾート施設は「はいむるぶし」という。漢字で書けば「南群星」である。南十字星を含む南の空に輝く星々を言い表すことばのようだ。

サザンクロスには出会えなかったが、旅の後半は好天に恵まれ、八重山の美しい空と海を存分に楽しむことができた。



波照間慕情 

探偵ものにはまっていた娘から、日本で南十字星が見られるのは波照間島であると教えられた。「金田一少年の事件簿」というタイトルのマンガ本によるのである。彼女の本棚には多分全巻がそろっているはず。何号にあるかわからなかったが、インターネットがおしえてくれた。18号で早速読んでみたところ、かなり複雑であった。長い間ダミーをつかっていた作曲家が報道されたことがあったが、この本も波照間島を舞台にした画家の話で殺人にまでいたり、南十字星が犯人探しのヒントであった。

20年以上波照間島が頭から離れなかったが、今回ようやく訪ねることが出来そうであると計画をねった。しかしこの島で南十字星に出会うには宿泊が必要であり、ツアー旅行では日帰りばかりで不可能だ。星空観測タワーでの観測ツアーがあり、また、月曜定休、観測所まで往復有料の送迎バスもあるようだが。ということで今回は、せめて南十字星という意味の名前の「はいむるぶし」での宿泊と、波照間島産の黒糖を旅行後に開催される6月4日の総会で参加者と食してサザンクロスに出会えたことにしよう。(ゆきこ)



旅に参加して

南十字星を日本でも見ることができるのを知って今回の旅行を楽しみにしていました。南半球のタスマニアやNZでは上空にハッキリとサザンクロスが輝いていました。

北半球の日本では、八重山諸島から水平線辺りにギリギリ見えるという。実際に見えたときには、遠い〜距離を実感するとか、球体の不思議に感動するかもといったワクワク感が膨らんでいたので 今回見られなかったことは残念でした。

しかし綺麗な海や南国の美味しい食事には大満足でした。ホテルのバイキングには豚の耳が、サラダのドレッシングはカラフル・黄色はうこんドレッシング、透明は石垣塩ドレッシング、オレンジ色は名前が覚えられませんでしたがどれも美味でした。(もとこ)



筆者紹介 たていしまさひこ:2013年定年退職後旅を最大の楽しみとしている。青春18切符を活用してJR全線完乗を目指しているが、岩手県内の山田線に一部長期不通区間があるため足踏みしている。ダーウィンとアデレードを結ぶガン鉄道にも挑戦したい。





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